お母さんと子どもの和み処〜心和〜の日記

0〜5歳のお母さんと子どもが笑顔になれる場所を目指して活動しています。

自己紹介

2018年4月1日から
アメブロでブログを始め
 
毎日欠かさずにブログを更新しながら
4ヶ月と20日が経ちました。
 
 
昨日までに全145記事
読者登録は90人
 
アクセス数は
4月700人台
5月1000人台
6月2000人台
7月3000人台
本当に有り難い事です。
 
 
おかげ様で
2018年8月8日には
 
1日1組、女性限定で
バリ島と日本の植物の力を利用し
体質改善や手からの癒し効果が
期待出来るという
「オリエンタルジャムゥセラピー®︎」と
 
25年間勤めた公立保育所と療育園の
経験を生かして0〜5歳までの
「子育てアドバイザー」として
 
 
大阪府岸和田市にある
築100年以上の元茅葺屋根の
古民家自宅サロン
『お母さんと子どもの和み処〜心和(ここな)〜』
を無事オープンさせる事が出来ました。

皆さまに心から感謝申し上げます。
 
 
そして
昨日の一粒万倍日に、また新たなご縁を頂き
はてなブログ』もスタートしてみました。
 
 
 
また新たなチャレンジの始まりです。
そこで、改めて自己紹介をさせて頂きますね。
 
 
 
大阪府岸和田市の山手にある
お母さんと子どもの和み処『心和』
 
●オリエンタルジャムゥ®︎セラピスト
&子育てアドバイザー
 
『心和』オーナー須藤和子のプロフィール
 
 
〜幼少期(0〜6歳)〜
 
 
【1972年9月13日〜誕生】
 
9月13日という不吉な数字続き?の台風の嵐の中で逆子、帝王切開で生まれる。
 
斜頸で始終首が片側に傾き、股関節脱臼の為ギプスのようなおしめをしていたので、ハイハイをするのも歩き出すのも遅かったそうで、母はずっと自分の事を責めていたという事ですが、私の前では、そんな姿は見せずに、両親共に私を愛情たっぷりに育ててくれました。
 
1番最初の記憶はつかまり立ち。タンスの取っ手の低い所から少しずつ高い所に手をかけていき、だんだんと立ち上がる時の手ごたえのある感じが楽しかったです。
 
一歩一歩、歩くだけで両親が凄く喜んでくれて、自分もやれば出来る!と母の手を振りほどいて、何度転んでも立ち上がって自分1人で歩こうと頑張るのも楽しい思い出です。
 
ご飯は必ず全員揃ってから食べるのが日課になっていたのに、その頃歩くのが楽しくなり、もっと歩きたい!と食事の席に着かずに歩き続けていた時に、滅多に怒らない優しい父から「お母さんがせっかく食事を作ってくれたのだから一緒に食べなさい」と初めて叱られました。父から叱られたのは人生で2度ほどしかないうちの貴重な1回目です。
 
 
 
【1976年(3歳)〜保育所に入所】
 
毎日毎日プリンカップで砂の型抜きを作るのが大好きな職人気質な子ども時代。型が綺麗に抜けると達成感を感じ、型が崩れると次はもっと綺麗に作りたい!と、ひたすら型抜き作りに熱中して明け暮れていました。
 
同じ事を繰り返す中で、前よりもっと良いものを作りたい!と飽きずにひたすらコツコツと繰り返すのが大の得意な子どもでした。
 
家での1人遊びでは、オモチャよりも草や花を石でたたいたり、すり潰して、ままごと遊びを楽しむ子ども時代でした。
 
 
父は日雇い労働者がお金がない為に病院にかかれないという事から、お金がなくても、どんな人でも病院にかかれるようにという日雇い労働者の為の病院作りの立ち上げスタッフから参加して、病院の事務の仕事で定年で退職するまで「日雇い労働者でスーツを着る人は誰もいない」と、ほぼ年中半袖を貫いてました。
 
困っている人の為に働き、どんな人の事も偏見の目で見ない父の姿に心から尊敬していました。
 
父の親戚も中学校の校長先生や市議会議員、孤児院の施設の寮母さんなど、人の為に活躍する人が多く、大きくなったら私も人の為に働く仕事に就きたいと思っていました。
 
 
母は専業主婦で、貧しいながらも知恵と工夫でコツコツとやり繰りし、真面目だけれど天然でおっちょこちょいの母の姿に笑いの絶えない楽しい日々でした。お金はなくても人とのつながりを大切にしていた母は、いつも周りの人とのご縁を大切にし、人の悪口を言わない人でした。
 
そして私を生む一週間前に亡くなった、自分の母親(私の祖母)はお寺の娘で大変慈悲深かったと、よく思い出話を聞かせてくれました。


早くに自分の父親を亡くし、母親(私の祖母)も私を生む一週間前に亡くなって、親戚も同じ年生まれの赤ちゃんがいたり、両親の実家が九州と広島と、遠く離れて住んでいたりと、身近に頼れる人が居ない中で、母は必死の思いで私の事を育ててくれました。
 
 
 
【1978年(5歳)〜人との交流に目覚める(笑)】
 
入所してからずっと1人で型抜き遊びを楽しむ姿に、ひたすら寄り添ってくれた保育所の先生。「和ちゃんも皆と遊ぶと楽しいよ〜」と誘ってくれていた声に対して「なんで型抜きの楽しさがわからないの?」と思っていたけれど、だんだんと「ちょっとだけなら先生の言う事を聞いてみても良いかな〜」と先生の優しい寄り添いに心を傾けていき、入所して2年後にようやく集団遊びに参加するという、かなり手強い、頑固な子ども時代でした。
 
でも、自分のタイミングで参加して遊んでみたら、それがめちゃくちゃ楽しかった!(笑)「何でもっと早く先生の言う事聞かなかったんだ〜」とは思わないけれども、まぁ楽しい!ドッジボールやだるまさんがころんだ、鉄棒の足掛けまわりなど友達や先生と遊んで楽しむ日々。
 
優しい保育所の先生が大好きな時期でお昼寝のトントンが楽しくて優しい先生によく甘えていた頃。また、お泊まり保育の時に書いた絵が凄い!と褒めて貰って嬉しかったのも良い思い出。この頃からずっと心の中に保育所の先生が居ました。
 
住んでいた団地では色んな年齢の友達と縦割りで遊び、大きな年齢の子に憧れ、同じ事が出来るようになると嬉しかったり、小さな年の子に対しては「マメ」という、その子の成長に合わせたルールを考えるのが楽しかったです。ドンジャン、高鬼、色鬼、だるまさんがころんだなどで、よく遊びました。
 
 
【1979年(6歳)〜弟が生まれる】
 
弟の出産前に3ヶ月間、母が入院して、それまで病院でみんなが勤務しづらい夜勤を引き受ける事が多かった父と2人で一緒に過ごした、貴重な日々になりました。
 
住んでいた団地の隣の市民病院にお見舞いに行くと、いつも「お腹が空いた」という母を見て、子ども心に自分だけお腹いっぱい食べるのは申し訳ないと感じ、母の入院中ほぼ食事を摂らなくなりました。
 
自分の不慣れな手作りの食事が口に合わないのかと、私の事を心配した父は、近くの定食屋さんであれこれと色んなものを頼んでくれましたが、そんな父には悪いと思いながらも食事をする気分になれず、唯一食べてもいいかなぁと思ったのが卵かけご飯。ひたすら飽きずに卵かけ御飯を食べ続けた3ヶ月でした。
 
無事に産まれた弟はめちゃくちゃ可愛くて、母の真似をしてミルクをあげたり、おしめを替えたり、抱っこしたり、寝かしつけてそのまま一緒にお昼寝したりと、とにかくお世話が楽しかったです。赤ちゃんの可愛さにメロメロになった時期でした。
 
 
そんなこんなの幼少期でした。
振り返ってみれば、かなり変わった子どもだったんだなぁ〜と感じますが、当の本人はとても楽しく幸せな子ども時代でした。
 
 
 
〜小学校時代に続きます〜
 
 
 
今日も最後までお読み頂き
ありがとうございました。
 
 
*バリ島と日本の薬草(ジャムゥ)を使った
体質改善と、より日本人の身体に合わせた
ヒーリング効果の高いオイルセラピー
【オリエンタルジャムゥセラピー®︎】
 
*女性限定、1日1組のご褒美サロンです
 
『オリエンタルジャムゥセラピスト』
心和(ここな)  須藤和子