お母さんと子どもの和み処〜心和〜の日記

0〜5歳のお母さんと子どもが笑顔になれる場所を目指して活動しています。

自己紹介②

2018年4月1日から
アメブロでブログを始め
 
毎日欠かさずにブログを更新しながら
今日で4ヶ月と21日が経ちました。
 
 
昨日までに全146記事
読者登録は90人
 
アクセス数は
4月700人台
5月1000人台
6月2000人台
7月3000人台
本当に有り難い事です。
 
 
おかげ様で
2018年8月8日には
 
1日1組、女性限定で
バリ島と日本の植物の力を利用し
体質改善や手からの癒し効果が
期待出来るという
「オリエンタルジャムゥセラピー®︎」と
 
25年間勤めた公立保育所と療育園の
経験を生かして0〜5歳までの
「子育てアドバイザー」として
 
 
大阪府岸和田市にある
築100年以上の元茅葺屋根の
古民家自宅サロン
『お母さんと子どもの和み処〜心和(ここな)〜』
を無事オープンさせる事が出来ました。

 

 


 
 
皆さまに心から感謝申し上げます。
 
 
そして
一昨日の一粒万倍日に、また新たなご縁を頂き
はてなブログ』もスタートしてみました。
 
 
 
また新たなチャレンジの始まりです。
しばらくはアメブロの記事を貼り付けて
様子をみてみようと思っていますので
アメブロはそのまま続けていきますが
改めて自己紹介をさせて頂きますね。
 
 
 
大阪府岸和田市の山手にある
お母さんと子どもの和み処『心和』
 
●オリエンタルジャムゥ®︎セラピスト
&子育てアドバイザー
 
『心和』オーナー須藤和子のプロフィール
 
 
〜誕生から幼少期(0〜6歳)まではこちらから〜
 
〜今日は小学校から就職(6〜20歳)までです〜
 

 


【1979年(6歳)〜小学校に入学&斜頸の手術】


小学校に入学後に、斜頸の手術をする事になりました。手術は全身麻酔で天井の丸いライトや口からの全身麻酔が子ども心に印象的でした。手術よりも終わった後のリハビリの方が痛くて辛くて、何度もリハビリを嫌がって抵抗した日々。


お医者様や看護師さんは、リハビリを嫌がる私に優しくて、何とかなだめすかしながらも私のタイミングを待ってくれて。今となっては本当にありがたかったです。

 


また電車に乗ってネイティブの英会話スクールに通っていましたが、全く分からず苦手意識だけが残り、中学校からの英語の勉強も苦手意識からほぼ全く勉強せずに終わりました。


同じスクールに通っていた友達は今では英語ペラペラでハワイに移住。人生受け取り方で道が大きく変わって行くのだなぁとしみじみ感じます。


ある日切符を落として駅で困って泣いていたら、親切なおばさんが話しかけてくれて、駅員さんに話をしてくれて助かりました。その時に「困っている人がいたら、私がしてもらって嬉しかったように、周りの人にも親切にしよう」と思いました。

 


【1980年(7歳)〜引っ越しをする】


同じ岸和田市内の団地から新興住宅地に引っ越しました。新しく出来た友達はクリスチャンの一家で、日曜学校に誘ってくれました。賛美歌のハーモニーの美しさに心が震えるほど感動。日曜学校からキャンプに参加したり友達と一緒に遊ぶのが楽しかったです。

 


【1981年(8歳)〜仲良しの友達が出来る】


この年に友達になった子は、学校では一切喋らず首を縦に振りうなづくか、横に振るかで意思表示をする子でした。


学校では一切喋らないのに、家に帰るとめちゃくちゃ普通に喋る変わりぶりに最初はビックリしましたが、そんなものかな〜と受け入れ、次第に仲良くなるにつれて学校では私の耳元で囁いて、私が先生やみんなに伝えるという役目が生まれました。


私の中では、学校で喋らないだけで、とにかく普通の子だと感じていたので、少しずつ周りに理解されていって、周りの友達がどんどん話しかけたり繋がっていき、私以外の友達が増えていくのが嬉しかったです。


必然的に私とその友達とが話す時間が減っていきましたが、友達がみんなと嬉しそうに過ごしている姿をみて「これで良かったんだ」と子ども心に思いました。


ただ、普通だと思っていた友達が中学生になる時に支援学校に進む事になった時は「人前で喋らないだけで他は至って普通なのに何で?」となんとも言えないショックを受けた記憶があります。
しょうがいという生きづらさのある人の人生に初めて触れた時期。みんなちがってみんないいのにと、子ども心に、ちょっぴり悔しかった思い出があります。

 


【1983年(10歳)〜地元の学習塾に入る】


地域の塾に入ると、現在住んでいる地域の村中の友達も居て、村中の子ども達の育ちの良さは子ども心に感動でした。


スレてない、人とコミュニケーションがキチンと取れる、親切、人の為に力を出し惜しみしないなど、尊敬出来る友達が出来た事で、子ども心に「どうやったらこんな良い子が育つのだろう?」と不思議に思って感動しました。(その疑問は20年後に村中に引っ越して解消しました)


小学校の担任の先生は、30歳になったばかり。暇があれば常にギターを弾いてみんなで歌ったり、休日にはソフトボールをしたり、生徒と全力で遊びを楽しむ姿が素敵な先生でした。


平和の大切さや人への思いやりの大切さを話し続け、卒業の色紙に「自分に厳しく人に優しく」と全員に同じ文章を書いてくれたのが印象的でした。

 


【1985年(12歳)〜中学校に入学】


フォークソング部に所属。手が小さいのでなかなか弦を押さえられず悪戦苦闘し、遂には諦めて歌を歌ったり、ハモリのパートで楽しむような、ゆる〜い部活を楽しみました。憧れる友達に影響されて、いろんな事をとことん楽しんだ時期。


受験勉強はそこそこだったけれど、学校の先生に「ここなら入れますよ」と言われた学校は『定期があれば休日に都会に遊びに行ける!』という遊びメインの理由だけで即決しました。

 


【1988年(15歳)〜四天王寺高校に入学】


洋舞という踊りのバレエの部活に入るものの、一年でダンス部と洋舞が合体することになりました。部活は先輩との上下関係がとても厳しくて、廊下の端に先輩の姿を見かけた途端に90度にペコペコと先輩が通り過ぎるまで挨拶し続けたり、先輩の荷物は率先して持ったり、宝塚歌劇団のような感じ?と、それさえも内心楽しんでました。


文化祭では始発の電車に乗り、終電で帰る位ひたすら練習し、当日もかなり盛り上がりました。
当時の花博にも出場して良い思い出になりました。


その頃から元夫とお付き合いをはじめて、ひたすら遊んで楽しい時期。勉強そっちのけで遊んでいたら、当時70歳の先生が「こんな成績の悪い生徒は今までみた事がない」という位のなんとも酷い赤点になりました。


見兼ねた友達が「分かってないと人にも教えられないから、私も復習になって良いから一緒に勉強しよう」と誘ってくれて夕陽丘図書館の自習室で勉強を始め、おかげ様で何とか平均点まで持ち直しホッとしました。


進路も学校のエスカレーター式に乗せてもらって、そのまま自校推薦枠で四天王寺国際仏教短期大学に入学したので、中学校に続いて受験勉強知らずで進学しました。

5年間の仏教学校生活では般若心経は何も見ずに唱えられるようになりました。

 

 


【1991年(18歳)〜四天王寺国際仏短期大学保育課入学〜


入った華道部は月に一度のゆる〜い活動なのに、更に遊んでほぼ参加せず。なので文化祭の時に先生の手直しがほとんどの作品を見て、プロは凄いな〜と呑気に感動していました。


手話サークルにも入り、聾者との交流から当事者の思いに気づいたり、貴重な経験になるものの、手話はほぼ覚えられずに終わりました。


勉強では哲学や心理学が楽しかったです。
そして、短期大学時代は何より教育実習が楽しくて、どの園に行くのもワクワク自分が一番楽しんでいました。

 

その教育実習中にバイクで転倒事故に遭い複雑骨折と脱臼で3ヶ月のギプス生活を余儀なくされ「あと5分意識が戻らなければ命はなく、別の部屋に入っていたかも知れない」と後から言われたものの奇跡的に復活。その時に「生まれ変わって新しい命を頂いたんだ」と思いました。


就職活動の時期の事故だったので、就職を諦めて4年大学の教育学部への進学も視野に入れていましたが、有り難い事に教育実習先の2園共に就職のお声がけを下さいました。


どちらの園も良い面もありましたが、一方で、我が子と共に出勤が出来るけれども熱が出た時、そのままみてもらえるので仕事を切り上げて帰りにくい事や、次の新採さんが入ってきたら必然的に古い人は辞めないといけないような雰囲気を目の当たりにして、子どもにとって一番良い事が追求出来る公立保育所に勤めたいと思いはじめ、無事に公務員試験に合格。


公立保育所に22年間、その後しょうがいのあるお子さんの通う公立の療育園に3年間勤務、合計25年間勤務する事になりました。

 


〜社会人編に続きます〜

 


 
今日も最後までお読み頂き
ありがとうございました。
 
 
*バリ島と日本の薬草(ジャムゥ)を使った
体質改善と、より日本人の身体に合わせた
ヒーリング効果の高いオイルセラピー
【オリエンタルジャムゥセラピー®︎】
 
*女性限定、1日1組のご褒美サロンです
 
『オリエンタルジャムゥセラピスト』
心和(ここな)  須藤和子